武蔵府中郷土カルタめぐり~用語集

武蔵の国府(い)

645年の大化の改新後に武蔵国の国府が府中におかれた。

坪の宮(い)

国造神社ともいう。祭神は胸刺国造(むさしくにのみやつこ)。
暗闇祭で全神輿が御旅所に集まると、そのことをこの神社に報告する儀式をする。

六所明神(ろ)

11世紀に総社六所宮が造立され江戸時代まで大國魂神社は
一之宮・多摩市の小野神社、
二之宮・あきる野市の二宮神社(小河大明神)、
三之宮・さいたま市大宮区の氷川神社、
四之宮・秩父市の秩父神社、
五之宮・児玉郡神川町の金鑽神社、
六之宮・横浜市緑区の杉山神社を
合わせ祭って六所宮と呼ばれる。明治4年に大國魂神社と改称。

武蔵の総社(ろ)

総社は神社のこと。
武蔵国の国府が置かれた府中に武蔵の祭神を一ヶ所に祭るために総社がおかれた。

大國魂神社随神門(ろ)

大鳥居をくぐって参道のつき当たりにある最初の門。
昔は両側に随神像があったが、現在は門のみとなっている。

馬場大門(は)

江戸時代にけやき並木の両側に馬の市場(馬場)が設けられて、馬場の大門になった。

馬の市(は)

徳川家康が府中馬市で買い求めた馬で大坂の陣に出陣し、
勝利を収めたことから江戸時代、府中市では大きな馬市が開かれていた。

けやき並木(は)

大國魂神社の参道に沿って南北550m続いている。国指定天然記念物。
1062年平安時代に、奥州阿部氏の乱を鎮圧するため、源頼義・義家父子が大國魂神社に戦勝祈願をし、
平定することができたためケヤキの苗1,000本を奉納したのが始まりといわれている。

二千年蓮(に)

「大賀一郎」東京大学農学部教授。植物学者。
2000年前のものと思われる蓮の実を開花させた。昭和20年から亡くなるまでの20年間を府中で過ごした。

北条と新田(ほ)

鎌倉時代の武士、新田義貞と北条泰家。

分倍古戦場(ほ)

1333年、新田義貞の軍勢が分倍河原で幕府側の北条軍を制した。
鎌倉幕府滅亡のきっかけとなった戦い。市指定文化財。

はけ(へ)

段丘崖のこと。府中市の中心部を立川段丘が東西に横切っている。
段丘の海抜は西端で70m、東端で40m。

滝神社(へ)

大國魂神社の末社。くらやみ祭の競馬式(5月3日)の前に馬と騎手が禊を行うところ。

虎の朱印(と)

北条家(二代氏綱から五代氏直)が正式な内政文書に用いた虎の印判。

免税状(と)

免税を指令した文書。
ここでは北条氏康が高安寺に賦課されるべき棟別銭を免除することを記した文書のこと。市指定文化財。

高安寺(と・あ)

曹洞宗の名刹で足利尊氏が安国利生を願って再建したとされる。
国司藤原秀郷の館跡ともいわれ、弁慶の伝説も残っている。

井田是政(ち)

小田原北条氏の家臣。井田摂津守是政。

良雪(り)

江戸時代の画家、関良雪。名は鹿島田佐内藤原常麻呂。
六所宮の神官だったが、のちに江戸へ出て画家として名をあげる。

白糸・染屋(ぬ)

布づくりが盛んだった。
万葉集にも歌われている「多麻川にさらす手づくりさらさらに何そこの児のここだ愛しき」。

浅間山(を・も)

標高約80メートル。
雑木林で覆われ、ムサシノキスゲ、野鳥、昆虫など武蔵野の自然が残っている。

四谷の五本松(を)

江戸中期に甲州からきた商人が急病で倒れ、四ッ谷村の人々が助けた。
後に成功した商人は四ッ谷村の一社一寺三十八戸にちなみ、」38本のクロマツを植えたことに由来する。

多磨霊園(を)

大正12年(1923年)に開設。約133haの日本最大の森林公園墓地。
数多くの有名人を含め、約29万人が眠っている。

和算(わ)

日本独自の数学のこと

関孝和(わ)

江戸時代前期に新しい算法を創造した人物。旧甲州街道沿いに養家である関家がある。

高札場(か)

大國魂神社の御旅所の隅にある江戸時代まで使われていた公示板。
ほぼ各村にあったが、府中宿の高札場は現在でも原形をとどめている全国でも稀な例。市指定文化財。

横山党(よ)

鎌倉時代の武士団・武蔵七党「野与・村山・横山・猪俣・児玉・丹(丹治)・西」の一つ。懸け仏を祭ったと思われる。

懸け仏(よ)

御正体ともいう。円型銅版に小仏像をかけたもので、弘安7年に鋳造された。
鹿島神社にあり市の指定文化財となっている。

西蔵院(よ)

御真言宗。「鼻取り地蔵」の伝説で知られている。
田んぼの代かきをしようと農夫が馬を動かそうとするが、暴れてどうしようもなく途方にくれていると、
小僧がきて馬の鼻取りをしてくれた。すると、馬はおとなしく歩き出し無事に代かきが終わった。
翌日、農夫が西蔵院にお参りに行くと地蔵尊の腰まわりが泥だらけだったことから、鼻取り地蔵の名がついた。

検地帳(た)

江戸時代の村単位にまとめた土地台帳。文禄3年・天正18年の検地帳は市指定文化財。

健康センター(そ)

プール・総合体育館を含む緑豊かな総合公園。

向山(つ)

多摩丘陵のこと。 多摩川南岸の丘陵で「多摩の横山」とも呼ばれる。

蓮華の磬(ね)

寺院での読経の合間に打ち鳴らすもの。妙光院の磬は蓮華を形どった珍しいもの。市指定文化財。

七百余年の歴史(な)

中世に追善供養等のために作られた石の塔婆。

郷土館(ら)

昭和43年から昭和62年4月まで開館。郷土の森の開設に伴い、閉館。

むさしのきすげ(む)

高山植物のニッコウキスゲが原種で乾燥低地に適したもの。5月に黄だいだい色の花が咲く。

うめ(う)

府中市の花として昭和44年に制定。バラ科サクラ属の落葉高木。

ひばり(う)

府中市の鳥として昭和44年に制定。スズメ目、ヒバリ科に属する鳥類。

けやき(う)

府中市の木として昭和44年に制定。 イラクサ目 ニレ科 ケヤキ属の落葉高木。

野村瓜州(の)

江戸時代の文人。
府中宿で「四人部屋」という宿屋を営むかたわら、学問にいそしみ松羅園という塾を開く。

「四人部屋」(の)

江戸時代に野村瓜州が府中宿で営んだ宿屋。

高倉遺跡(お)

分倍河原駅西方、府中崖線上に分布する高倉古墳群で26基の古墳が発掘調査により発見された。
土師器、須恵器、鉄刀等が出土した。

高倉塚(お)

高倉塚古墳は古墳時代後期の円墳。市指定文化財。

東京競馬場(く)

昭和8年(1933年)に目黒より移転。総面積78ha、一周2,100mで日本一の規模を誇る競馬場。

八つのみこし(や)

5月5日の大國魂神社例大祭(くらやみ祭)に8基の御神輿がくりだす。

大太鼓(や)

5月5日の大國魂神社例大祭(くらやみ祭)に6台の大太鼓がくりだす。

正月飾り(ま)

大國魂の神様が府中に降りたとき、
八幡様に鎮座地を探させたところ長い間待たされて「まつのはつらい」といった伝説に由来し、
府中では正月飾りに松を使わない。大國魂神社七不思議の一つ。

国府八幡神社(ま)

大國魂神社の境外末社で祭神は誉田別命(応神天皇)。
聖武天皇が一国一社の八幡宮として創立したとされる。

京王線(け)

大正5年(1916年)に新宿から府中まで開通。
当時の電車は1両で新宿まで1時間かかった。大正15年(1926年)に新宿・八王子間が全通した。

府中駅(け)

大正5年(1916年)10月31日 開業。平成5年(1993年)3月1日 高架駅となる。

府中ばやし(ふ)

大國魂神社例大祭(くらやみ祭)につかわれるお囃子。
神社から東が船橋流、西が目黒流。市指定文化財。

甲州街道(こ)

江戸と甲州を結ぶ街道。五街道のひとつ。

府中宿(こ)

甲州街道の宿場町。
本町・番場宿・新宿からなっており、川越・相州(鎌倉)両街道と交差する交通の要地だった。

御旅所(こ)

御旅所は神社の祭礼において神が巡幸の途中で休憩する場所、或いは神幸の目的地をさす。
くらやみ祭では御旅所に神輿が着くと坪の宮奉幣が執り行われる。

えのき(え)

ニレ科エノキ属の落葉高木樹。

三千人塚(え)

分倍河原合戦よりもう少し古い時代の塚であることがわかっている。
阿弥陀三尊が刻まれた板碑には1256年(鎌倉時代)の年号がはいっており、
多摩地区で最古の板碑である。市指定文化財。

鎌倉街道(え)

鎌倉に至る道の名称で上道・中道・下道があるといわれる。
源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから、中部・関東・東北にまたがる東国の武士団と幕府を結ぶ道だった。
多くの軍勢が進撃したことから陣街道とも呼ばれる。

鉄の仏(て)

建長5年(1253年)に鋳造された。国分寺の黒鐘から掘り出されたとも言われている。国指定文化財。

代官(さ)

君主の代理として任地の行政・作事などを司る役目を担う者。

高林吉利(さ)

徳川家康に仕えた武蔵国多東郡府中領の最初の代官。

ききん(き)

農作物の大規模な不作が原因で人々が飢え苦しむこと。

平右衛門(き)

川崎平右衛門定孝。押立村の名主だったが、武蔵野新田開発に携わり民生・土木などに功績を収めた。
玉川上水の桜を植えたのもこの人。

竜光寺(き)

天台宗。本尊には竜光寺阿弥陀如来像が安置されている。本堂裏の墓地には川崎平右衛門定孝の墓がある。

あみださま(ゆ)

白糸台染屋不動境内の阿弥陀金銅仏立像は鎌倉時代に鋳造され、
分倍河原の合戦の際、新田勢が守護神として上野国(群馬県)から持ってきたものといわれている。

学舎(め)

学制発布による公立学校。

市立第一小学校(め)

至誠・成蹊学舎が合併し府中学校となり、一小となった。<

市立第四小学校(め)

明倫・知新・啓蒙・弘道・常久・有隣の6学舎が統合・改廃を重ね多磨尋常小学校となり、四小となった。

市立第五小学校(め)

育幼学舎が明治7年(1874年)にでき、小野学校と改称し本宿小学校と合併し奇秀学校となり、五小の前身となった。

狛犬(み)

大國魂神社宝物殿におかれ、国の重要文化財に指定されている。運慶の作ともいわれている。

しながわ道(し)

品川から府中に至る道。別名「いかだ道」多摩川のいかだ人足が盛んに通った。

一里塚(し)

旅人に里程を知らせるために街道の両側に一里(約4km.)ごとに築かれた塚。
塚上には塚を固めるため榎や松・欅等が植えられ、旅人にとって日差しを避ける木陰になった。

一里塚記念碑(し)

甲州街道常久一里塚跡に昭和13年(1938年)、記念碑が建てられた。市指定文化財。
日本橋から7里の地点にある。江戸時代初期の甲州街道は東は調布の小島の一里塚から品川街道を通り、
大國魂神社随神門を経て高安寺下を抜け本宿の一里塚跡へ通じていたと伝えられる。

人見の合戦(ひ)

南北朝の正平7年(1352年)新田義興、義宗らが足利尊氏と浅間山周辺で対戦した。
足利尊氏はここでは敗北し、石浜城へ退却したが、のち盛返し小手指原・高麗原方面へ転戦していった。
太平記にも記されている。

関戸橋(せ)

鎌倉幕府の整備した鎌倉街道(現在の街道とは異なるところがある)は、
鎌倉から町田市、多摩市を経て関戸で多摩川を越えた。現在の橋は昭和12年(1937年)に開通。

すえ器(す)

古墳から平安時代にろくろを使い作られた素焼きのかたい土器。

片町(す)

たて穴住居の遺跡がある。

たてあな住居(す)

片町、高倉の奈良・平安時代の遺跡。

人見の鰐口(ん)

寺院の軒下につるしたへんぺい円形の鈴のこと。山城国の坪井久勝が寄進したもの。

人見研修所(ん)

幸福寺観音堂だった。

人見街道(ん)

府中市と杉並区大宮の大宮八幡神社を結ぶ、古くからの街道。別名「大宮街道」、「野州街道」。

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